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山梨ことぶき勧学院・中巨摩学園

2008年12月23日(火)
<山梨県ことぶき勧学院・中巨摩学園>
「郷土研究クラブの臨地研修会」
・山梨県立博物館でシンボル展「信玄堤」と山梨市の「根津嘉一郎旧宅」を見学しました。
Photo_6・ハンフレットによると「16世紀半ばの戦国の世、武田家による支配のもと、おもに周辺の村々に暮らす人々の力によって、この水難の地に釜無川を遮る堤防が維持され、川の後には新しく竜王河原宿が誕生した。その後、堤防は盆地の中に次々とつくられていき、18世紀初めの江戸時代半ば、釜無川はほぼ今の位置に定まったという」
・こうした過程を、残されている絵図面を中心にして解説していました。さらにこの技術が日本各地のあばれ川の治水に取り入れられていたことが、文献や絵図によって次第に明らかになっているそうです。
Photo_7・山梨市の「根津記念館」からいただいたパンフレットによると「万延元年6月15日(1860年)甲斐の国山梨群正徳寺村(現山梨県山梨市)の農家に生まれる。東山梨郡役所の書記、後に村会議員、村長を歴任。明治30年代には東京へ進出。東京では若尾逸平や雨宮啓次郎と知り合い、甲州財閥を形成。明治38年(1905年)には東武鉄道の社長に就任し、経営再建を行う。資本関係をもった鉄道会社は24社に及び、多くの会社において社長などに就任した。「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念もと、教育事業も手がけ、大正11年(1922年)には旧制武蔵高等学校を創設する。特に山梨県下の全小学校へ200台にも上るピアノ(後に根津ピアノと呼ばれる)やミシンを寄贈するなど、山梨県の教育文化振興に寄与した」
・建物は、当時としては最新式のボイラーを備え洗面所とトイレは現在とそん色がない作りになっています。しっかりとしたつくりになっていて、当時の豪華さは周囲の住民を威圧したのではないかと思いました。

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